2014年10月26日

むずむず

(痒いって言うのはさ、ちょっとだけ痛いって事なんだって)

 まだ声変わりもしていないような、幼く高い声が耳に蘇る。
 あの時、自分は何と答えただろうか。それは覚えていないが、指先についた切り傷が治りかけで痒い、と、ぼやいた事が切っ掛けだったように思う。
 痒いからと言って闇雲に掻いたりすれば、また傷口が開いてしまいかねない。子供ではないのだから、痒くても我慢する。そんな事は当然分かっている。
 しかしそれは、本当は傷口が痛むからだ。ほんの少しだけの、自分でも分からないような微かな痛み、小さな傷。少しでも引っ掻いてしまえば、そこからまた、新しい血が流れ出す事になる。
 だから、気付かないふりをする。そこに傷口があり、それが微かに痛む事を。

 あの金色の子供に出会ったのは、東方司令部に居た頃だった。そのうちに栄転で中央司令部に行く事になり、そしてまた、一つ階級を上げて東方へと戻ってきた。
 懐かしい古巣でもあるし、部下は腹心の者ばかりだ。負傷してリハビリに励んでいるものもいるが、そのうち戻ってくる事になるだろう。多少の違いはあれど、何もかも元通りだ。
 あの子供達を、彼らの存在を除いて。
 彼等は軍に関わりを持ってはいたが、正式な軍人では無かった。しかし、目的を達成する為の手段として、軍に首を垂れる事を選んだ。
 しかし目的を達した今、彼等がこの東方司令部を訪れる事は無い。
 別れ際「じゃあ、また」と言われはした。僅かな小銭の貸し借りという、微かな縁も残った。
 それでも自分は、また、とは言えなかった。社交辞令や建前上の言葉であったとしても、この兄弟が軍に関わりを持つ事は好ましくないと思えたからだ。望んでいたものを取り戻し、新たな道へと歩み始めた子供たちに、これ以上、軍が関わる必要も無いだろう。
 だから、元気で、とだけ、伝えた。
 兄の方とは、ほんの少しだけ、互いに特別だったように思う。しかしそれぞれの立場や環境から、それを言葉にした事は、ただの一度も無かった。
 それでも、気持ちが向き合っていたという確信はあった。例え、恋とさえ呼べないものであったとしても、それは自分だけの自惚れでは無かった筈だ。時々顔を合わせ、お茶や食事の誘いをかけ、断られる度、つれないなと冗談めかして応じる。そんな些細なやりとりだけで幸せだった。
 書類を片付ける合間に、自分の手を眺める。あの時、指先にあったのだろう、小さな傷を探してみる。しかし当たり前の話だが、そんな傷は、もうどこにも見当たらない。
 ――…傷なんて、どこにも無い。無い、筈だ。
 まだまだ課題は残っているとは言え、自分達は物語の後にいる。めでたしめでたし、の後の筈なのに。どうしてこんなにも、あの頃の事を思い返してしまうのだろうか。
「………………」
 思わず名前を呼びかけそうになって、やっぱり何も言えずに口を閉じる。
 軽々しく、彼の名前を呼べるわけがない。呼んでいい筈も無い。
 辛いわけでも、悲しいわけでも、苦しいわけでもない。
 多分、ただ――…少し、寂しいだけだ。あの頃の気持ちが、あの頃に置き去りになっている、ただそれだけの事が。
 小さく溜息をついたところで、机上の電話が鳴る。
「マスタングだ」
 端的に名乗ると、鈴を振るような軽やかな交換手の声が響く。
『外線からお電話です。お繋ぎしても宜しいでしょうか?』
「外線? ……珍しいな。相手は?」
 ロイ宛に入ってくる電話と言えば、軍人が殆どだ。「軍に意見を言いたい!」だの「先日マスタング准将に助けて頂いて、一言御礼を……」というような電話は交換手が適当にあしらってくれる為、ロイに廻されてくる事は殆ど無い。また、プライベートな友人や知人は、自宅の電話を知っているので掛けてくるような事も無い。
『元国家錬金術師の、エドワード・エルリック様です。念の為にコードをお伺いしましたが、一致致しました』
「…………え」
 意外すぎる名前に、思わず思考が停止する。
『お繋ぎしても?』
「あ、ああ……頼む」
 プツプツという音を立て、一拍置いてから、電話が繋がる。
『あ、大佐? ……じゃなくて准将か。オレだけど。エドワード』
 賑やかな音が背後から聞こえてくるところを見ると、外の公衆電話からかけているのだろう。記憶にあるよりも、また少し、声が低くなったように思える。ひょっとしたら、背も高くなっているのかもしれない。
『もしもーし? 繋がってるか?』
「あ、ああ……済まない、つい」
 思いがけないエドワードからの連絡に、これが現実だという認識が遅れてしまった。不審そうな声に、慌てて謝罪を返す。
「……君が連絡してくるなんて、珍しいな。何か、困った事でも?」
 国家錬金術師時代はトラブルメーカーとして名高かったエドワードの事だ。年齢を重ねる事で多少落ち着いたとは言え、またどこかで何かのトラブルに巻き込まれている可能性は充分に有り得る。
『いや、別に。近くまで来てるから、一緒に飯でもどうかと思って』
「…………は?」
 思いがけない人物からの電話で、更に思いがけない事を言われて、ますます混乱する。エドワードが国家錬金術師だった頃も、ロイから食事やお茶に誘う事はあっても、エドワードから誘われる事など、一度も無かった。正真正銘、ただの一度も、だ。
『もしかして、今日は忙しいか? 無理そう? なら、オレ、しばらくこっちにいるからさ、どっかで……』
「いや、今日なら空いている。……空く、筈だ」
 慌てて応えてから、机の上の書類の進捗状況を確認して、語尾が小さくなる。それでも、今から死ぬ気でこなせば、何とか夕食には間に合う時刻には司令部を出られる筈だ。
「――…17時……いや、18時頃に司令部に来てくれないか。受付には話を通しておくから」
『分かった。じゃあ、後で』
「待ちなさい、鋼の。……本当に、何か困った事があったのではないのか? それとも、何か、私に頼みごとがあるとか」
 電話を切ろうとするエドワードに、慌てて問いかける。もし何か用件があるというのなら、先に言って貰えれば手配も出来る。そう思っての問いかけだったのだが、返ってきたのは「だから、別に何も無いって」という呆れたような返事だった。
「そうか、ならいいんだが……君が、用も無いのに私を食事に誘ってくれるなんて、初めての事だったから」
 思わず零れた本音に、受話器の向こうに沈黙が落ちる。余計な事を言ってしまったかと不安になっていたら、溜息をついたような微かな気配が耳に届いた。
『……まあ、用はあると言えば、ある。本当は、会って話そうと思ってたんだけどさ』
「そう、か……」
 わざわざ顔を合わせてまで話す用件とは、一体何なのだろう。もしかして、あの可愛らしい幼馴染の少女との結婚が決まっただとか、そんな話なのだろうか。年齢的にはまだ早いが、有り得ない話ではない。
 もしそんな話だったとしたら、私は上手く笑えるだろうか。
『――…何かこう、むずむずして』
「は?」
『すっきりしないって言うか……やっぱり、はっきりさせておきたいって言うかさ。ほら、オレもあんたも、実際に口に出して言った事は無かっただろ? 色々とやらなきゃいけない事もあったし、色々としがらみって言うのか? そういうのもあったしさ。本当なら、はっきりさせないままで済ませるのが良かったのかもしれないけど、でも、今なら……や、全く問題無いわけじゃないけど、でも、昔よりはマシって言うか、』
 らしくもない回りくどい言葉を繋げて、エドワードが一体何を言いたいのかを察して、思わず絶句する。
 あの戦いの最中に何も言わなかったのも、はっきりと言葉にはせずに別れを告げた事も、互いの暗黙の了解だと思っていた。エドワードも、それを望んでいると思っていた。
「……鋼の……」
『――…分かってないとは言わせねえ。あんた、そんなに察し悪くないだろ』
 拗ねたような、怒ったような、そんな声音が愛しい。
 愛しいと思ってもいい事が、それが許されるのだという事が、ただ、嬉しい。
「そうだな。……とりあえず、顔を合わせてからだな」
『…………おう』
「公衆電話と軍部の電話では、愛を語り合うのに相応しくない」
『ば…………っ!』
 慌てたような気配に、何だかおかしくなる。年齢の割に妙に初心なところは変わっていないらしい。そんなところも、何だか嬉しい。
「夕食を摂る店は、私に任せて貰っても?」
 意識して声に艶を乗せれば、電話の向こうで唸るような声が聞こえる。気分を害してしまったのかもしれないと思ったが、すぐに返答があった。
『……ドレスコードがある店とか、勘弁な』
「勿論だよ。では、後で」
 名残惜しくはあったが、受話器を置く。後で本物に会えるのだから、今は仕事に専念しようと心に決める。
(――…それにしても)
 お互いの状況を「むずむずして」という表現で済ませたエドワードは、やっぱり流石かもしれない。
 痛いだとか、苦しいだとか、そういう事ではなくて。――…それほどの事ではなくて。
 それでもやっぱり、そこには、いつまでも痛み続けるような、小さな小さな傷があったのだと思う。
 きっとその傷は、互いに一歩を踏み出せば、いつかは癒えていくものなのだろう。お互いに、間違える事さえしなければ。

 とりあえず今日はエドワードに何を食べさせようかと、ロイは浮かれた気分で、机の上に積まれた書類の山に手を伸ばした。


終わり


先日コップ割って手だの足だの切って、しかも欠片が目に入って一騒動だったのですが、細かい傷が治りかけて痒くてですね……という話です。あ、目は無事です。
posted by 観済寺凪之介 at 00:01| 小話